2013年6月27日木曜日

【講演録】インターネット選挙運動解禁について

(※以下は、2013年5月16日に日本新聞協会メディア開発委員会専門部会で行ないました、講演の記録です。承諾を得ましたので、質疑応答を除いた部分のみ転載します。)

インターネット選挙運動解禁の経緯

公職選挙法は、選挙期間中に限り、①街頭演説や演説会、選挙運動用自動車の利用など「言論による選挙運動」と、②ポスター等の掲示や、はがき、ビラ等の一部頒布といった「文書図画による選挙運動」を許可している。1996年の国会質疑で、当時の自治省が「インターネットは公選法で認められていない文書図画にあたる」と回答した。
 ネット選挙運動解禁の動きは15年以上にわたり見られていたが、改正案はこれまですべて廃案となっていた。しかし安倍首相が2013年夏の参院選の解禁に意欲を示し、4月19日、改正法が可決・成立した。解禁は7月の参院選からだが、6月23日の都議会議員選挙が事実上のネット選挙運動解禁になると見ている。これまでにも、ウェブサイトやTwitterを選挙期間中に更新した人はいたが、起訴はされていない。選挙期間中のネット更新はグレーゾーンだった。都議選では、これから解禁されるのが分かっている状況なので、ネットを使う人もいるだろう。

公職選挙法改正のポイント

公選法改正のポイントは、①ウェブサイト等を利用する方法(メールを除く)による選挙運動用文書の頒布の解禁、②選挙運動となるメールの送信主体を候補者と政党に限定、③政党のみの有料広告の解禁、④インターネット等を利用した選挙期日後のあいさつ行為の解禁、⑤屋内施設の演説会場における映写の解禁、⑥誹(ひ)謗(ぼう)中傷・成り済まし対策――の6点だ。
 選挙運動とは、特定の候補への投票を呼び掛けることなので、②では政策の評価などの評論や落選運動のメールを送ることは有権者も可能だ。「A候補を落選させよう」というメールは送れるが、「Aを落選させるためにBを当選させよう」は送れない。また、候補者からの選挙運動用メールは転送できないが、ネットやソーシャルメディアに転載することはできる。
 ⑥では、これまでなかった誹謗中傷・成り済まし対策が、今回初めて設けられたとして評価できる。具体的には、選挙運動用のウェブサイトへの書き込みやメールに連絡先の表示が義務付けられた。ウェブについては、2ちゃんねるなどネット掲示板の書き込み一つ一つにも連絡先を入れる必要があるが、罰則はない。メールの表示義務を怠った場合は、禁錮1年以下または罰金30万円以下の刑罰が科され、禁錮の場合は公民権停止もある。また、現行の公選法の虚偽表示罪が、ネット上の成り済ましにも適用された。違反した場合は禁錮2年以下または罰金30万円以下の刑罰が科され、公民権停止となる。他には、プロバイダ責任制限法の特例が設けられた。候補者等から名誉侵害の申し出があった場合、プロバイダーが内容を削除しても民事上の賠償責任を負わない期間が、「7日」から「2日」に短縮された。連絡先の表示義務を果たしていない情報は、直ちに削除できる。海外のプロバイダーには適用されないなど十分であるとは言えないが、対策が一歩進んだとして評価できる。

メディアへの影響

ネット選挙解禁がメディアに与える影響の一つ目は、ソーシャルメディアを通じた選挙に関する情報の増加だ。リツイートで情報が拡散されたり、後援会以外のルートで演説に人を動員できたりする。12年の米大統領選では、オバマ候補が独自のソーシャルメディア「Dashboard」を構築した。そこでは、候補者の予定や、支援者が有権者にかけた電話の回数など、選挙運動の全容が見られる。こうした手法は徐々に日本にも入ってくるだろう。
 二つ目は、情報の多角的な分析が可能となる。新聞社などが行う世論調査とは別に、人々の生の声・会話から選挙情勢を分析し、候補者がマーケティング活動に応用できる。HootSuite社によるツイッター分析サイトでは、候補者のフォロワー数の推移、話題となっているツイート内容が分かる。他にも、選挙中で一番反応が良かった候補者の発言や、肯定的・否定的な反応が多い発言について、分析できる。候補者の発言が正確であるかを調べ、情報の修訂正を図る「FactCheck.org」というサイトも登場した。
 三つ目は、マスメディアとソーシャルメディアの協働が進む。全選挙区に記者が張り付くのは難しい。現場にいる一般の人が流す様々な情報の中から、マスメディアが信頼できる情報を選び、拡散するキュレーションの役割を果たすようになる。協働の一例が4月15日に発生した「ボストンマラソン爆破事件」だ。ボストン・グローブやワシントン・ポストのアカウントがキュレーションの役割を果たした。こうした動きは、これから広がってくるだろう。
 四つ目は、動画の活用だ。動画を使えば、禁止されている「第三者による公開討論会」同様のものが可能だ。ビデオ通話ツール「Google+ハングアウト」を使えば、遠隔地の人とも一つの場所に集まって議論しているような映像が作れる。また、時間帯を気にせず選挙運動ができるため、候補者を議論の場に引き出しやすい。既存候補者との主張の違いを際立たせたい新人候補者らにとっては、動画は魅力的なツールだろう。政見放送も、YouTubeなどネットで流すことは禁止されているが、候補者自身が撮影した動画であれば、放送事業者に素材を渡す前でも後でも、自身のウェブサイトに張り付けることができる。屋内の演説会場における映写も解禁され、選挙期間中に選挙区に戻れない候補者が、演説会で動画を流し有権者にアプローチすることもできるだろう。

ネット選挙で考えられる違反

今後あり得る違反は、未成年によるネット選挙運動、告示日前の事前運動、人気投票の実施などがある。また、選挙運動用のメールは、メールアドレスを「送信者」に対し通知した者に送ることが要求されている。配信プラットフォームを使った場合、アドレスを「送信者」に通知したことにはならない。
その他ネット選挙運動への報酬の支払いや、メールやソーシャルメディア運用の完全外注も違反となる。ウェブサイトの文章やツイートの内容は「候補者本人が文章を自分で作り、それを機械的に業者が文章を入力している」という形でなければ、選挙運動の企画立案を業者が行ったと見なされ、選挙運動員の買収に問われる可能性がある。選挙コンサルタントやプランナーは頭を抱えている。

有料ネット広告の解禁

有料インターネット広告が解禁され、政党等は選挙運動用ウェブサイトにリンクする広告を掲載できるようになった。しかし、解禁されたのは「政治活動用」広告で、自分の党に投票を呼び掛ける「選挙運動用」広告は掲載できない。例えば、「子育てにやさしいA党」という表現は可能だが、「子育てにやさしいA党に投票を」という広告は掲載できない。ただし、広告のリンク先ウェブサイトが「~に投票を」という表現を用いていても、問題はない。また、ガイドラインには「広告にその支部長の氏名や写真を表示することのみをもって直ちに選挙運動性を有するとは断定できない」とあり、政党の支部長の氏名等は掲載できるので無所属候補とは差がある。次の選挙に向け、見直しの議論はなされるだろう。
 政党等の広告で一番使われるようになるのは、ユーザーの属性によって見え方が異なるターゲット広告だろう。住む地域によって違うバナー広告が表示される「エリアターゲット広告」のほか、「行動ターゲット広告」などがある。検索履歴やメールなどからユーザーの興味・関心を抽出し、「子育て」や「年金」などキーワードに政党名を絡めたような広告が掲載される。その他、一度クリックした政党広告が所定の広告欄に何度も表示される「リターゲット広告」、「デモグラフィック広告」など、より有権者に届く広告掲載が可能になる。
 新聞広告は、今までと変わらない。QRコードを掲載した広告も、これまで通り掲載できる。一つ注意すべきは、あいさつ行為全般は新聞・インターネット共に禁止されているが、期日後のあいさつ行為に関しては、インターネットのみが認められ、新聞は許されていない。


2013年5月31日金曜日

ネット選挙運動解禁と有権者の「主体性」ーネット選挙運動解禁は「静かな革命」か(3)



 戦後民主主義の課題の一つは、丸山真男の議論に代表されるように、いかにして「個々人の主体的な作為」としての民主主義を構築するか、ということだった。日本における市民参加・市民運動の評価はさておき、選挙という局面だけ切り取ってみると、個々人の「作為の契機」はほとんどなかったと言えるのではないだろうか。その原因の一つとして、やはり公職選挙法を挙げざるを得ない。公職選挙法は選挙運動の手段を極めて限定し、やってはならないことを事細かく定めている。「べからず法典」とも揶揄される所以である。「観客民主主義」「おまかせ民主主義」が嘆かれて久しいが、法律で決まっている以上、名前の連呼や、内容の薄いビラ、顔が大写しのポスターの中から「選ぶ」以上の行為は、ほとんどの有権者はできなかったのである。もちろん選挙事務所に行けば、積極的に活動ができるというかもしれないが、それは普通の有権者にとって、あまりにも高い敷居である。
 さて、このたびのネット選挙運動解禁で、果たして有権者の主体性は拡大するのであろうか。現在ではむしろ懸念の方が強い。いわゆる「政治マーケティング」の手法が広がり、見栄えやイメージばかりの情報が横溢することで、さらに有権者は政治を消費するしかない存在になってしまうという懸念である。
 確かにこれまでの傾向からすると、ネット選挙運動解禁後は、これまでないほどの量の情報が政治の側から出てくるであろう。しかし有権者が一方的に操作されるかというと、必ずしもそうとは言えないかもしれない。
 というのは、様々な調査結果から明らかなように、人々は「情報の洪水」にウンザリしているのである。今や広告よりも、信頼されているのはクチコミや友達や家族からの情報である(例えばNielsen, Global Trust in Advertising Survey)。ソーシャルメディアとは、まさに人と人の関係の上に情報が流れるツールである。いくら「量」を増やしても、共感できるものでなければ、ソーシャルメディアでは情報は流れていかない。
 さらにソーシャルメディアは、候補者からイメージや心地よい言葉といった「マーケティングの皮」を引き剥がすかもしれない。候補者は常に、ソーシャルメディアの監視にさらされることになる。携帯での気軽な動画の撮影や実況が、候補者の本音や本性、矛盾した発言を映し出し、あっという間に拡散させるかもしれないからである。
 ネット選挙運動解禁の意義の一つは、このような「ライトな参加」ができるようになったことである。ライトであっても、誰しもが重要な役割をする可能性がある。何気ない「共感」が、増幅・拡散していく可能性を、誰もが持っている。
 もちろん、後援会を中心に回ってきた選挙のやり方、「日本の伝統芸能」ともいわれる選挙のやり方が、急激に変わるとは思えない。人の考え方は、そう急には変わるものではない。しかし現在のインターネットが人々の主体性を向上させるポテンシャルを持つツールであることは確かである。こうしたネットを使いつつ、有権者の立場から選挙に積極的に取り組もうとする運動が各地で出てきている(そうした運動については改めて紹介したい)。重要なのは、諦めずにネットというツールの使い方を模索し続けていくこと、そしてネット上に現れた「作為」を広げていくことではないだろうか。

 そうした「作為」が集まることで、公職選挙法全体が変わっていくかもしれない。私は今回のネット選挙解禁のもう一つの意義は、実はそこにあると考えている。ネット上で様々な選挙、有権者主体の選挙がなされるようになるならば、その一方で、ビラやハガキの印刷代、選挙カーのガソリン代から運転手代まで手厚い公費負担で支えることの是非は、再び議論にならざるを得ないのではないだろうか。知恵と工夫次第で自由に広がるインターネット、その一方で旧態依然とする規制の残る公職選挙法、そのせめぎあいは今回のネット選挙解禁でこれから始まるのである。参議院選挙だけでネット選挙運動の是非を論じられるべきではないだろう。

※本エントリーは谷本晴樹「ネット選挙運動解禁と有権者の「主体性」」『構想日本 J.I.メールニュース No.605』を加筆修正したものです。


2013年4月14日日曜日

ネット選挙解禁、有権者が気を付けるべき6つのポイント

 いよいよ公職選挙法改正案が衆議院を通過し、インターネット選挙運動解禁が間近になってきました。そこで今回は、もし改正案が通った場合に、有権者が気を付けるべき点についてまとめました。なお、以下の内容は2013年4月8日衆議院通過時点の法案に基づいています。今後の国会審議で修正等される可能性も考えられますのでご注意ください。

1.未成年は「ネット選挙運動」ダメです。

ネット選挙運動が解禁となっても、未成年者は引き続き禁止です。ですので未成年が、twitterなどで「○○に投票して!」と呟くと、未成年者の選挙運動の禁止(公職選挙法 第138条の3)違反に問われる可能性があります。

2.「事前運動」ダメです。

公職選挙法が改正されると「祝、ネット選挙運動解禁! みんなで○○に投票しよう!」とかツィートする人がいそうですが、さっそくそれ、公職選挙法違反とみなされる可能性があります。特定の候補者を当選させるために行なう選挙運動は、選挙期間しかできません。選挙期間は、公示日(地方選挙の場合、告示日)から投票日の前日までのことで、衆議院議員選挙なら12日間、参議院議員・都道府県知事なら17日間などと細かく決まっています。それ以外の選挙運動は「事前運動」として禁止されています。

3.選挙運動はメールでなくウェブ・SNSで。

よく知られている通り、選挙運動において、メールが送ることができる人は、候補者と政党に限られました。したがって一般有権者が友人・家族に「○○に投票して」とメールで送ると、公職選挙違反に問われかねません。したがって、twitterのDMや、facebookのメッセージなどで送ることにしましょう。なんでメールがだめでSNSは良いのか、謎に思われるかもしれませんが、とにかく法律はそうなってますので気を付けてください。
 候補者の選挙運動用メールを転送することもアウトです。転送者がメールの送信者とみなされます。ただ、あなたが誰か候補者を熱心に応援していて、候補者のメールを知人に伝えたい場合、メール内容をコピー&ペーストし、自分のブログか何かに張り付ける方法なら大丈夫です。SNSで伝える方法もあります。
 また、「選挙運動」ではなく「政治活動」の一環としてならば、メールは自由に使えます。ここが有権者にとって分かりずらいところですが、特定の候補者を当選させるような文面でなければオッケーなわけです。例えば「A候補者に一票を」はダメですが。「候補者Aと候補者Bを比較して、Aの政策の方が実現性が高いと私は思う」というメールは送られるわけです。

4.掲示板の書き込みにも連絡先表示義務があります。

応援サイト・落選運動サイトを作る場合、電子メールなど連絡先を明記しないと、公職選挙法違反に問われる可能性があります(ただし罰則はありません)。また、掲示板への書き込みについても、メールアドレス等の連絡先を記入しなければならないということです。もし名誉棄損とみなされ、かつ連絡先を記入されていない書き込みがなされると、発信者に対して同意照会なくプロバイダー等サービス事業者から即、削除される可能性があります(プロバイダ責任法の特例)。

5.「テレビ」の政見放送をyoutubeなどにアップロードしてはなりません。

テレビでの政権放送・経歴放送を録画し、インターネットにアップロードし、自分のホームページなどに張り付けることは、放送事業者に著作権隣接権が発生しますのでできません。ただ、候補者本人が政見放送と全く同じ動画を作成したもの、あるいは放送事業者に渡す前の動画で、本人がネットに公開したものであれば、それを有権者が拡散することは問題とはなりません。ですのでこの点注意が必要です。

6.ネット人気投票はしないほうがいいです。

ネットでは人気投票、ランキングが比較的に簡単にできます。特に有名なのが、ニコニコ動画の「ニコ割アンケート」です。これは、動画生放送中に、視聴者にアンケートをとれる仕組みですが、これを選挙期間中にやってしまうと、内容によっては、人気投票の禁止(公職選挙法 138条の3)違反に問われる可能性もあります。気を付けましょう。


 はじめに述べたとおり、今回のエントリーは、衆議院を通過した公職選挙法改正案をベースに書いていますが、法案が参議院に送られた後、修正される可能性もあります。また与野党でガイドライン作りが本格的になってきます。そちらでまた変更・追加があり次第、報告します。いずれにしても今回のネット選挙運動解禁は全面解禁ではないことは、有権者もよく認識しておかなければならないでしょう。

2013年4月1日月曜日

「動員」を巡る攻防ーネット選挙運動解禁は「静かな革命」か(2)

 ネット選挙解禁で、変わることが最も期待されている点の一つは、「選挙への関わり方」だろう。

 今までの、有権者の選挙への関わり方は、メディアで大々的に報じられる選挙でもなければ、ビラや葉書など限られた経路を経て得た情報を、一方的に「消費」するぐらいであったといえる。もし、ある候補者を熱心に応援したい、「消費」以上のことをしたい、ということであれば、実際に選挙事務所や後援会事務所に行かねばならず、参加のハードルは非常に高かったといえるだろう。
 また、選挙事務所には独特の雰囲気があって、新参の人間にとってはなかなか声を上げにくい。私自身も窮屈な思いをした経験がある。
 「勝手連」というようなものが、たまに出来上がるのは、そのような理由からでもある。つまり自分たちが、自分たちらしいやり方で、選挙応援をしたいということである。しかし、勝手連という存在自体もまた、普通に生活している人にとっては縁遠い。

 ネット選挙解禁の意義の一つは、このような参加のハードルをかなり下げ、「ライトな参加」を可能にすることである。
 それは、例えば、ネットを通じて知った演説会に参加する、ソーシャルメディアで候補者・政党の情報を拡散する、あるいは動画やブログ、掲示板などに応援の書き込みをするという程度のものである。
 しかし、その効果は侮ることはできない。このような「ライトな参加」は、より深いコミットメントに変化するかもしれないし、なによりも「伝播」していくものだからである。

 人は、意見の内容そのものよりも、「親しい友人の意見」の方に、関心を寄せるらしい。ポール・アダムス『ウェブはグループで進化する ソーシャルウェブ時代の情報伝達の鍵を握るのは「親しい仲間」』によると、情報過多の時代、人は友人からの情報をますます信頼するようになっていて、ウェブさえも人間中心になってきてるという。 であるならば、支持を広げるうえでソーシャルメディアを介した「ライトな参加」はより重要性を増していくだろう。
 そのためには、スケジュールや、選挙の様子など、これまで以上に「情報公開」が重要になってくる。今までであれば、有名な弁士や政党幹部が応援演説にきても、それを告知する方法は限られてきたが、これからは ネットや動画を通じて告知することができるようになる。候補者本人には興味はなくとも、応援弁士への興味を介して実際に出向き、出向いた友人から支持が広がるという経路は、どの政党・候補者も抑えておかねばならないだろう。

 もっと言えば、これは近年注目されている、「政治マーケティング」の流れに掉さすことになるだろう。アメリカ政治では、ケネディ大統領の時代より、メディアや世論調査を駆使したマーケティングの手法は、選挙のたびに磨かれてきた。とくにオバマ大統領は、いわゆる「ビックデータ」に基づくきめ細かい分析とソーシャルメディアを組み合わせ、ボランティアを効率的・組織的に動員し、勝利したと言われている。
 近年、世界中で「選挙のアメリカ化」が言われているが、程度の差こそあれ、日本もその例外ではないだろう。もちろん、政治マーケティングに対しては、これもまた有権者を政治の消費者と見なす手法であり、情報操作的でプロパガンダに過ぎない、中身を伴わない政治が跋扈するだけという批判もある。

 もちろん、そうした批判は一面では正しい。しかし、そう批判していても仕方がない。というのは、こうした、世論や情報を気にする政治の流れは、もはや止めようがないように思えるからである。
 また一方で、ソーシャルメディアは、一方的に有権者が「動員」されるツールかというと、必ずしもそうとは言えないだろう。「アラブの春」しかり、韓国の落選運動などもそうだろう。アメリカ大統領選挙では、各候補者のソーシャルメディアなどでの発言が事実であるかきちんとチェックするFactCheck.orgや、アメリカの民間非営利団体・プロパブリカ(ProPublica)のように、選挙中から現在に至るまで、様々な角度から分析し、いったいどのような選挙であったのか検証し続けているメディアもある。
 このようにネット選挙解禁は、政治の側が有権者を取り込もうとする動きと、政治の側を検証しようとする動きを、ともに加速させるものである。
 その加速が日本ではどの程度のものか、また、その良し悪しについて、現時点では判断することは難しい。ただ、このような「動員」を巡る攻防の最前線を、これまで以上に注視していきたい。

2013年3月17日日曜日

「動画」の可能性―ネット選挙運動解禁は「静かな革命」か(1)

 ネット選挙運動解禁が間近となってきた。すでに指摘されている通り、与党案にはメールの送信を政党・候補者に限って認めるなど様々な制限があり、今回は部分解禁と言えるだろう。「ネット選挙運動解禁」の不十分さをあげつらうのは、この法案をウォッチしている人間にとっては簡単だろうし、確かにおかしな点、気を付けなければならない点も多々ある(そのような点については、別途指摘する予定である) 。
 ネット選挙運動解禁によって政治が変わるか、あるいは変わらないか、という議論がある。しかし、実をいうと私はそのような議論にはあまり興味がない。ネットやSNSを使えるようになったからといっても、本当に有効な活用方法を考え、実際に選挙で使われるようにならなければ「変わらない」に決まっているからである。
 正直言って、私は今の日本政治には満足していない。だから「変わるか、変わらないか」よりも、「政治を変えるにはどうすればいいか」について、私の限られた頭を使っていきたい。せっかく、ネットという大きなポテンシャルを持った武器が選挙運動に使えるようになるのである。諸刃の剣であることを自覚しつつも、政治を変えるための活用の可能性について探っていきたい。

 さて、そこで今回取り上げるのは「動画」である。
 いまさら「動画」かよ、と拍子抜けされたかもしれない。しかし、この「動画」という括りをうまく使うことによって、大きなインパクトがもたらせられるかもしれない。
 例えば、現行の公職選挙法は、選挙期間中に、市民が候補者討論会を主宰することを禁止するなど、様々な制限を課している。しかし、今回の改正によって、ネット上で行われる「討論会のようなもの」は、すべて「動画」として自由に行われるようになるのである。現状では「合同・個人演説会」という、いわば裏技のような形で、候補者同士の議論を行っているが、候補者の日程が合わずに開催されないということはよくある。特に相手が大物現職で、各地に遊説に行っていると、「多忙」を理由に断られ、新人候補者としては、直接相手と議論することによって、違いを際立たせて支持を広げるという戦略は取りずらかった。
 ところが例えば、Googleハングアウトなどを使えば、相手がどこにいようが、有権者の前で議論をすることができるのである。相手は、これまでのように「多忙」を理由に逃げられない。動画の投稿時間についても、特段制限がないため、リアルの選挙運動が終わった後の深夜にでも開催することができる。つまり、相手がどこにいようが、いつであろうが、候補者の討論「動画」の投稿は無制限にできるのである。「日程が合わない」という言い訳が効かない以上、新人候補者は積極的にネット「動画」討論会を仕掛けるかもしれないし、「逃げた」とみられないためにも相手も乗ってくるかもしれない。
 それでは現職にとって一方的に脅威かというと、必ずしもそうとは言い切れない。全く注目されていない点であるが、今回の改正案では、屋内の演説会場内における映写が解禁されることになっている。ということは、遊説中で選挙区に戻れない候補者も、演説会を開いて、ネットをスクリーンに「動画」で流すことで、支持者固めができるのである。公職選挙法では、演説会に候補者の出席は義務付けられていないし、複数同時に別の会場で、開催してはならないという規定もないのである。
 ネット選挙運動解禁は、ネットユーザーしか関係のないことで、ネットを使わない(しかし投票率は高い)高齢者にはまったく影響がない、とも言われる。しかし、このような「動画」をうまく使うことで、ネットを使わない高齢者にも候補者や政策について浸透させる戦略ができるかもしれない。
 しかし私がなんといっても期待するのは、民間の事業者や市民団体である。繰り返しになるが「討論の動画」は誰でも自由に発信することができる。そこでソーシャルメディアを組み合わつつ、ustream,youtube,ニコニコ動画などを使いつつ、様々な「動画」を作り出すことで、選挙を盛り上げるサービスができることを期待したい。

2013年3月5日火曜日

【書評】『日本の変え方おしえます―はじめての立法レッスン』(政策工房著、高橋洋一監修)

ニッポンの変え方おしえます: はじめての立法レッスン近年、反原発デモから韓流反対デモに至るまで、その是非はともかく街頭から盛んに人々の「声」が聞こえるようになったことは確かだろう。
 おとなしくて「お上」の決めることに従順という、日本人のイメージは変わりつつあるのかもしれない。しかしそのような声など、まるで聞こえないかのように、粛々と政治は動いているようにも見える。しかしそれは、政治の側が鈍感なだけが理由だろうか。
 もちろん人々が声をあげることは重要である。しかし本書で言われているように、社会は「法律」によって変わっていくという事実にも目を向けなければならない。
 本書は、法律とはそもそも何なのであるか。法律がどのように作られるのか、といった基礎的なことから、請願や陳情あるいはパブリックコメントなどのように、私たちができる実践的な政治へのかかわり方まで網羅している。しかも「生徒」と「高橋先生」が、かけ合いながら話を進めていくので、誰でも気軽に読みすすめることができる。
 社会を変えたいという意識の高い人間は稀かもしれない。しかしある時、特定の問題に強い憤りを覚えることは誰でもあるだろうし、ひょっとしたら不条理な目に合う可能性もある。そんな時に法律はどうなっているか、法律を変えるには、どこに、どのように要求すればいいのかという視点の有無は大きな違いとなるかもしれない。
 デモによって、人々の声が現れることは良いことだと思う。しかし、一方で政治の「起動ボタン」を、きちんと認識し、戦略的に行動することも重要ではないだろうか。
 さて、本書は入門書ではあるが、現在の政策決定過程の改革についての、重要な提言が含まれている。
 例えば、政治を官僚主導ではなく「政治主導」にするためにはどうすればいいか。飯尾潤は、『日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ』の中で、日本の統治構造を鮮やかに描き出しているが、飯尾の処方箋は、マニフェストによる政治の実現と、政府・与党が一致して政策の立案にあたることであった。いわば、議院内閣制の本来の機能を取り戻させることで「政治主導」を達成しようというものであった。
 まさしくこのようなことを掲げたのが先の民主党であった。しかしマニフェストで掲げていた「埋蔵金」は、思うように掘り出せず、全く書かれていなかった消費税増税を打ち出したことで、自らマニフェスト政治の評判を下げてしまった。さらに政府・与党の一元化を打ち出し、いったんは政策調査会による与党の事前審査を廃止したが、結局党内の反発で復活せざるを得なくなってしまった。
 一方で、官僚の手段に熟知している著者が、本書で掲げるのは議員立法の活用である。特に与党も積極的に活用していくべきだという主張は新鮮に映る。詳細については、本書で是非お読みいただきたいが、いかに「慣例」に過ぎないことで、政策決定過程が根詰まりを起こしているか、読者は驚くことだろう。
 人々の声を民間の立場から政治の世界につなげる「政策起業家」や「政策プロデューサー」などの提言も大変興味深い。本書を通じて、国だけでなく、身近な各地域でも「政策市場」のプレーヤーが登場することを期待したい。



ニッポンの変え方おしえます: はじめての立法レッスン
ニッポンの変え方おしえます: はじめての立法レッスン


2013年3月2日土曜日

「細かすぎて伝わらない」では困る、ネット選挙解禁法案

 与党、野党ともに国会に公職選挙法改正案を提出した。
 与党案には日本維新の会、生活の党、社民党なども同調している。衆参で過半数になるので、ひょっとするとすんなり与党案が通ってしまうかもしれない。しかしその与党案の細部をみると、何を意味するのかよく分からないところや、候補者や有権者の間に誤解を生みそうなところがある。かつて、テレビで「細かすぎて伝わらない…」などというコントがあったように記憶しているが、選挙で「細かいところ」で引っかかって、公職選挙法違反になってしまっては、笑い話では済まなされない。そうならないように、与野党でしっかり審議し、細部まで詰めて欲しい。
 一見、細かい点なので、あまりメディアでも注目されていないが、そのまま放置すると「思わぬ落とし穴」になりかねない点を、今回は3点挙げたい。特に3については、おそらく当の法案に関わる議員ですら、よく分かっていない点だと思うので、しっかり審議してほしい。

1.「この人いいね!」はダメだけど「この人ダメだね!」は良い??

例えば選挙運動用メールである。「第三者」である有権者は、選挙運動用メールを送ることができないことになっている。一有権者が友人に「この候補者良いよ!投票して!」として送ってしまうと、公職選挙法違反に問われる可能性がある。が、実は落選活動(当選を得させないための活動)用のメールだったら送ることができるのである(改正案第142条の5)。つまり「この人いいよ当選させよう」はダメなのであるが、「この人だめだよ落選させよう」はオッケーなのである(ただし、メールアドレス及び氏名又は名称を正しく表示させなければならない)。これが本当に整合的なのかわからないが、メールで選挙に関する話題は一切ダメなんじゃないかと思っている有権者も多いのではないだろうか。メールだけの話ではないが、ネット上の政治議論が委縮しないように、ダメな場合をしっかりと説明しなければならないだろう。

2.「まぐまぐ!」などをつかって、選挙運動用メール配信はダメ?

候補者が一番やってしまいそうな落とし穴は、「まぐまぐ!」のようなメール配信代行業者を通じての選挙運動用メールを配信してしまうことである。与党案では、電子メールは送信者「本人」に運動用電子メールを求める人に対してしか、送ることが許されていない。したがって、「まぐまぐ!」のようなメール配信システムでは、直接候補者本人に申し込んでいるわけではなく、業者は電子メールを受信を希望する者に対して機械的に電子メールを送信しているに過ぎないので、おそらくはダメになるだろう。この点も、はっきりとさせて、周知徹底しないといけないだろう。

3.なぜ「バナー広告だけ可」なのか議論を。

与党案では、政党のみ「バナー広告」が認められることになった。しかしその理由が、聞けば聞くほどよく分からない。この法案に関係する議員の中にも、実は「バナー広告」自体、よく分かっていない人がいるかもしれない。例えばある議員は、リターゲティング広告(Cookie情報を元に、一度広告主サイトを表示したことのあるユーザーに再度、訪問を促す手法)などいろんな広告があるので、それを規制したいと言っていた。しかしこれは意味不明と言わざるを得ない。バナー広告のみ認めるという事は、そうしたターゲティング広告を規制することに繋がらない。例えば有名検索サイトの「バナー広告」は利用者の検索履歴、あるいは住んでいるエリアから、ターゲットごとにバナー広告を行っているからである。
 さらに、なぜバナーはよくてテキストはダメなのか、その理由もよく分からない。おそらくその趣旨は、広告とそうでないものをはっきりさせたいということだろう。であれば、アメリカの州の多くが、「paid political advertisement(有料政治広告)」ときちんと表示させる義務を負わせているように(中には広告金額まで公表する義務を課しているところもある)、広告であるという表示義務を負わせればいいということではないか。

 インターネット選挙解禁法案をめぐる、与野党の違いは、有権者に選挙運動用メールの送信を認めるか否かばかりが注目されがちであるが、その裏で大切な論点が見過ごされているように思う。もちろん、インターネット選挙解禁は早期に実現してほしい。しかし「拙速な審議」だけは避けてほしい。すべての有権者が当事者となるのが公職選挙法である。迅速でありながらも丁寧な国会審議を期待したい。


2013年2月24日日曜日

なぜ有権者の「メール」利用はダメなのか?―ネット選挙解禁法案、協議の焦点



 現在、ネット選挙運動解禁について、各党の協議が続いている。与党は、選挙運動用メールの送信を、政党と候補者に限り認め、それ以外の有権者には認めない方針である。
 これに対し、早くも反発の声が聞こえてきている。例えば、「ネット選挙運動、公明党の反対により私たち一般人のみ全面解禁ならず」(ガジェット通信)という記事が、twitterなどで大きな反響を得ている。
 確かに私も、有権者にも選挙運動メールの送信を認めるべきであると考えている。ネット選挙解禁ということで、うっかり友人に「君が住んでいる所の、あの候補者、結構いいよ」とメールを送ってしまうと、選挙違反になる可能性があるというのは不条理に感じられる。だが、当然このような批判を覚悟してまで、メールを規制するというのは、それなりに「理由」があるはずである。そのような「理由」をきちんと取り上げずに、ことさらに「敵」を作り上げて叩くことは、生産的な議論とは言えない。「敵」を叩くのではなく、「理由」に丁寧に反駁していくことが、少しでも良いネット選挙解禁に繋がるのではないだろうか。
 2月13日の「自民党選挙制度調査会・インターネットを使った選挙運動に関するPT・総務部会合同会議」で配られた資料では、すでに電子メールの送信主体は政党と候補者に限定されている。
 そちらの資料では、有権者のメールを制限する理由を3つ挙げている。第一に、密室性が高く、誹謗中傷やなりすましに悪用されやすいという点である。候補者や政党の見えないところでデマや誹謗中傷が広がることを懸念しているということである。第二に、選挙運動用メールについては、氏名や電子メールなどの連絡先を記入しなければならないことになっているが、違反すると、1年以下の禁固、30万円以下の罰金などがあり、さらに公民権停止もありうる。このような処罰から有権者を守るためには、選挙運動用メールの使用そのものを有権者に関しては禁止してしまえばいいのではないかというのである。第三に、悪質なメール(ウイルス等)により、有権者に過度の負担がかかる恐れを挙げている。
 私がこれらの理由に反論するならば、第一の理由については、ソーシャルメディアであってもダイレクトメールなどを使うことによって、ほとんどメール同様のことができるので、メールだけ規制する理由にならない。現実にこれまでの選挙でも、嘘とも本当ともつかないウワサ話が飛び交うのは日常茶飯事である。候補者・政党が気が付かないからと言って、メールのみ規制するのは意味がないように思われる。第二に、確かにメールアドレスを記載するなど「決まり事」があるが、そんなに有権者を大切に思うのであれば、有権者が送るメールに関しては、「決まり事」を外すべきだし、罰則も対象外にしてしまえばよい。第三の点に関しては、確かにウィルス付メール、迷惑メールは問題であるが、この問題もメール固有の問題ではなく、ソーシャルメディアでも、同じようなことが起こる可能性が考えられる。さらに別途、迷惑メール防止法あるいは電磁的記録の改ざんということで刑法の罰則もある。そちらの対応を強化するというなら話は分かるが、有権者のメール利用を制限する理由には、これもならないように思われる。
 以上、私としては選挙運動メールを有権者のみ制限することに反対である。しかし最初に述べたように、制限すべきだという主張に全く「理由」が無いわけでは無い。であるならば、もっとその理由について、国民の納得が得られるように、情報をもっと発信して行くべきだろう。特に名指しされた公明党はなおさらである。野党にも注文がある。少なくとも自民党は、上記の理由を示しているはずである。ならば「与党は国民の側に立っていない」と、世論を煽るのではなく、丁寧に「理由」に対して反駁し、反対派を説得する言説を作り出していってほしい。この問題が政争の具になってしまうことこそ、国民が一番不利益を被るということを忘れてはならない。

2013年2月20日水曜日

オバマ政権、「暗殺の基準」の波紋


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今月4日、アメリカNBCニュースが、司法省の公式文書(white paper)をスクープした。各国メディアはこれを大きく取り上げている。
 この公式文書は、外国にいる自国民を無人偵察機などで殺害する場合の法的正当性について述べたものである
 「targeting killing(標的殺害)」といわれる、この殺害作戦の主要な設計者の一人は、ブレナン大統領補佐官といわれている。そのブレナン氏が第二期オバマ政権のCIA次期長官に指名されている。そして就任の可否を巡る公聴会前という、絶妙のタイミングでのNBCへのリークであった。当然、上院特別委員会の公聴会は大荒れとなった。
 NBCニュースが入手した16ページの文書(PDF)によると、その基準とは、アルカイダなどのテロ集団であって、(1)アメリカに対し「差し迫った脅威」があること、(2)ターゲットの身柄の確保が難しいこと、(3)武力行使の基準に適合しているものである時、自衛権の一環として、自国民に対してであっても標的殺害は、許容されると述べている。
 問題なのは、肝心の「差し迫った脅威」の定義がされておらず、自衛権の発動だとしても、その要件をかなり拡大してしまう点である。2011年9月には、反米活動の指導者で米国籍を持つアンワル・アルアウラキ師を殺害し、同時にやはり米国籍を持つ雑誌記者サミル・カーンを殺害している。数日後には当時16歳であったアルアウラキの息子も殺害されている。アルアウラキ師については様々なテロ容疑はかかっていたが、正式に起訴されていたわけではないし、具体的なアメリカの攻撃計画があって殺害されたわけでもない。残る二人については、容疑すらかかっていなかった。
 これでは、アメリカ政府が「脅威」と認定したならば殺害してもいいということに等しい、と思えてしまう。オバマ大統領は、無人機による殺害作戦を活発化させている。ブレナンがCIA長官になれるかどうか、あまり日本では報道されていないかもしれないが、その影響は今後大きいかもしれない。


オバマの戦争オバマの戦争

2013年2月17日日曜日

オバマ政権-オープンガバメントはさらに進むか?


White Houseのトップページ・オバマ大統領の演説が掲載され、閲覧者はコメントを入れることができる。


オバマの2期目政権が始まってから、約1か月が経とうとしている。2009年の第一期目スタートの時と、今回を比べると、一つ大きな違いがあることに気が付く。それは「オープンガバメント」に対する姿勢である。
 2009年の最初の就任演説、オバマ大統領は「今日問われているのは政府の大きいか小さいかではなく、機能するかどうか」であるとし、「人々と政府の間の信頼関係」を再構築すると宣言した。
 そして就任式直後、『透明性とオープンガバメント』を発表し、「透明性(transparency)」「政治参加(participation)」「官民協力(collaboration)」という3本の柱を打ち出した。
USASpending 政府支出の場所・金額などがわかる
以後、次々と革新的な施策をしてきた。例えば、「Recovery.gov」や「USASpending.gov」などを通じて、政府の公共事業について、どこに、何を、どれぐらい支出しているか、誰でも知ることができるようになった。またData.govという情報ポータルサイトがつくられた。ここでは35万以上のデータセットを、しかもデータとして利用しやすい形式(マシンリーダブル)で設置している。その意図するところは、政府が有する膨大な情報を公開することで、民間事業者による新たな公共サービス開発を促そうとするものである。
 情報公開だけでなく、直接的に国民の政治参加を促す試みもしている。それが、「We the People」である。こちらは30日以内に5000以上の署名が集ると、ホワイトハウス(大統領府)として対応するというものである。すでに累計で1000万近くの署名を集めている。
 もちろん、すべてがうまくいっているわけではない。例えば「We the People」では、「オバマ大統領の出生証明の公開」とか「マリファナの合法化」などというものが人気が出たりしている。情報公開についても、古いシステムにあるデータ、または紙ベースのデータを、マシンリーダブルな形で公開するのは、大変な作業であり、すべてが予定通り言っているわけではない。ブルームバーグが行った調査でも、基準内の情報公開がされていないという報道もある。
 いずれにしても、第2期目も、オープンガバメントを力強く推進していくことが期待されている。だが先月の就任演説では、オープンガバメントについては言及がなく、現在に至るまで、新たな政策は打ち出されていない。
 しかし、それをもって、ただちにオープンガバメントにオバマ大統領が後ろ向きになったと判断することはできないだろう。例えば最近では、オバマ大統領は、政府の不正密告者に対し大きな保護を与える立法にサインしているし、「We the People」も新たなバージョンの開発を公表している。
We the peopleの署名の伸び

 ともすれば、オープンガバメントは、単なる「情報公開」と受け取られたり、単にデベロッパーの問題とも捉えられがちである。しかしこれこそ、政治参加の新しい試みであり、「公共」を官民協働で担おうとする、壮大な民主主義の実験なのである。大きな政府の借金と低い政治への関心に見舞われている日本も、この取り組みは大いに参考にすべきではないかと考えている。
 オバマ大統領の「民主主義の実験」の行く末を、引き続き注視していきたい。

2013年2月13日水曜日

政治報道の新たな可能性 ―プロパブリカによる大統領選挙特集

 アメリカの民間非営利団体・プロパブリカ(ProPublica)が、2012年に行われた大統領選挙について、継続的なレビューをしている。http://www.propublica.org/series/campaign-2012

 「ダーク・マネーとビッグデータ」というこの特集では、選挙中から現在に至るまで、様々な角度から分析し、いったいどのような選挙であったのか検証し続けている。


 その分析はかなりの規模で行われていて、しかも多岐にわたる。例えば、オバマの選挙戦術に関する分析がある。昨年の大統領選挙において、オバマ陣営は、支援者あるいは支援者となってくれそうな人に対し、こまめにメールを送り、少額の寄付を大量に集めた。そのために、いわゆる「ビックデータ」と呼ばれる、性別、居住地、年齢、宗教、寄付の履歴等々、様々な個人に関する属性のデータから最も「効果的」と思われる文面を送っていたといわれる。もちろん、オバマ陣営がどこから情報を集め、どのような人にどうアプローチをしているか明らかにすることはない(もし、そんなことをしたら、すぐに「政治問題」になるだろう)。そこで、プロパブリカは実際にメールを受け取った190人の情報から、メールには6つのパターンがあることを明らかにし、かつ受け取った人の属性との関係を調べることで、オバマ陣営の手法を明らかにしようとしている。まさにオバマの「選挙マシーン」をリバース・エンジニアしようとする試みである。


 近年、アメリカの選挙で一番問題になっているのは、「スーパーPAC(Political Action Committee:政治活動委員会)」である。候補者本人の政治団体に寄付をする場合、厳密な情報公開のルールがあり、寄付自体にも上限があるが、この任意団体である「スーパーPAC」への寄付は無制限である。スーパーPACは、テレビ広告などを大々的に使って、特定候補者を応援したり、ネガティブキャンペーンを張ることで、大きな影響力を選挙戦で振るっている。にもかかわらず、どの候補者の支援団体か一見よくわからないし、誰がスーパーPACに寄付をして、何にどれほど支出をしているか実態がよく分らない。また、スーパーPACと候補者陣営の関係についても不透明である。

 そこでプロパブリカは、各スーパーPACがどのような活動をしていて、誰を支援しているのか、一覧で表示し、スーパーPACと陣営の資金の流れ、誰がどれくらい寄付しているかなどなど、インフォグラフをつかって、分りやすく提示している。



例:スーパーPACと候補者の支出の流れ



 プロパブリカでは、新しい事実がわかり次第、<追記>がされて、膨大な記事のストックが出来上がりつつある。そして政治資金という、文章では伝わりにくい問題も、インフォグラフを活用することで、視覚的に全体像がわかるような工夫がされている。まさに、ウェブの特性を活かした、これからのジャーナリズムの可能性を示しているものといえよう。

「ネット選挙運動解禁」へ向けた緊急アピール

いよいよ、ネット選挙解禁へ向けて、各党の協議が大詰めになってきました。そろそろ「その先」を見据えないとまずいだろうということで、One Voice Campaignとして緊急提言をしました。
http://blogos.com/article/56020/


2013年2月10日日曜日

【書評】吉本隆明『共同幻想論』


 以前読んだ時は、ほとんど意味が分らなかったが、kindle版が出て、しかも半額(笑)だったということで、久しぶりに読んでみた。
 正直言って、未だに十分に理解できたとは言えないし、自分の成長しなさを恥じるばかりだが、それでも本書に魅力を感じてしまうのは、私たちが生きている「国家」とは、なかでも、いったい「日本」とは何なのか、という疑問に正面から挑んでいる、数少ない書籍だからかもしれない。
 「国家」とは、「日本」とは何かについては、勿論それぞれ様々な本が出てはいる。しかし、「日本」的な文化を称揚するような論者も、それが「国家」とのつながりとなると急に粗雑に議論を展開してしまう(というか寡聞にして、ちゃんと整理している論を見たことがない)。一方、「国家」論に関しても、社会契約論や、暴力装置としての国家などという話を持ってきても、何か物足りなさを感じてしまう。つまり、「近代国家」以前にも、人間は、様々な政治集団を作り出してきたのであるが、そうした人々の意志、みたいなものの問題は無視されているのではないかと思うからである(フーコーもヨーロッパの思想の伝統について、確かそんなことを言っていたと思う)。
 吉本は、「〈国家〉の本質は〈共同幻想〉であり、どんな物的な構成体でもない」と断言する。しかも共同幻想は、国家に特有なものではない。
 「〈共同幻想〉というのはどんなけれん味も含んでいない。だから〈共同幻想〉をひとびとが、現代的に社会主義的な〈国家〉と解しても、資本主義的な〈国家〉と解しても、反体制的な組織の共同体と解しても、小さなサークルの共同性と解してもまったく自由」であるという。
 吉本はこのように人々の「観念」から政治体が構成される契機を考えていく。共同幻想は3人以上から成り立つ。一方で自分自身の「自己幻想」、そして自己幻想と共同幻想の間、つまり夫婦や兄弟といった、一対一の「対幻想」を置く。そして、吉本は『古事記』や『遠野物語』を引き出して、「対幻想」が破られるところから「共同幻想」が生まれることを述べていく。
 共同幻想論の射程は国家論から文学論まで幅広い。例えば吉本は、夏目漱石が夫婦だけの間にある、性愛で結ばれた「対幻想」を求めてたのに対し、妻の方は習俗、つまり「共同幻想」としての家族を営む夫婦を求めたことに、その夫婦関係の悲劇の本質を見出している。
 賛否両論、すでに批評も書評も大量にあるので、その周辺図書も合わせて読むと、より理解が深まるだろう。確かにその原理はわかり易いとは言えないが、純粋に「古事記」や「遠野物語」から吉本が抜き出す逸話を楽しむのもいいだろう。本書については、歴史に残るというぐらい評価する人もいれば、全くダメだと完全否定する人もいて、これほど評価が真っ二つに分かれる本はないかもしれない。だからこそ読んでおくべき本だと思う。

2013年2月8日金曜日

【開催告知】「インターネット選挙運動解禁前夜」に考える僕らの政治

下記のイベントに出ることになりました。。がんばります。

緊急開催!「インターネット選挙運動解禁前夜」に考える僕らの政治 presented by One Voice Campaign | B&B 

http://bookandbeer.com/blog/event/20130215_one_voice/


2013年2月6日水曜日

【論文紹介】山本圭「ポピュリズムの民主主義的効用」鵜飼健史「ポピュリズムの輪郭を考える」

☆取り上げる論文
  • 山本圭「ポピュリズムの民主主義的効用」日本政治学会編『年報政治学 2012-Ⅱ』(2012年12月)
  • 鵜飼健史「ポピュリズムの輪郭を考える-人民・代表・ポピュリスト-」法政大学法学志林協会編『法学志林 第110巻 第二号』(2012年12月)


「ポピュリズム」の諸相

 近年、「ポピュリズム」を巡る議論が盛んである。一般にポピュリズムとは、人々に訴えるレトリックを使って政治的な目的を達成すること、あるいはその際のカリスマ的な政治スタイル、または「人民の意志」を政治的に実現しようとする運動そのものと理解されている。
 ポピュリズムは、民主主義を壊す現象だとして、小泉純一郎の「郵政選挙」から橋下・大阪市長まで、否定的に語る際によく使われる。しかし政治学の見地では、ポピュリズムは必ずしも否定的なものではなく、民主主義である以上、不可避の現象ともいえる。その辺の説明については、吉田徹『ポピュリズムを考える』に詳しい(おそらく本書が最も包括的にポピュリズムを理解できる書籍ではないかと思う)。
 しかし政治学的に捉えるにしても、ポピュリズムをどのように位置づけるかは論者によりまちまちである。
 山本が指摘しているように、ポピュリズムへの評価は「近代民主主義」をどう捉えるかにかかっている。近代民主主義とは「自由主義」と「民主主義」という異質な伝統の混合物である(「近代民主主義の二縒り理論」)。人権の擁護、権力の制限を重視する「自由主義」の伝統からはポピュリズムを警戒する言説が生まれるし、一方、被治者と統治者の一致、人民の直接的な政治参加といった「民主主義」の伝統からは、ポピュリズムに肯定的な言説が生み出されることになる。
 日本でも諸外国でも、「政治不信」は先進国共通の病理である。その原因として、「政治」と「人民の距離」がたびたび挙げられている(例えばジョセフ・ナイ『なぜ政府は信頼されないのか』)。「ポピュリズム」は、この間隙を埋め合わそうとする営みということはいえるだろう。



ラクラウのポピュリズム論

 さて、山本論文も鵜飼論文も、中心となっているのはラクラウのポピュリズム論である。ラクラウは、ポピュリズムを、様々な現象から共通する特徴を抽出したり、あるいは理念型のようなものを導くようなことをしない。もちろん、特定の階級のイデオロギーに還元するようなこともしない。
 人々は個別の要求(「ヘテロ的要求」)を持っている。それが政治的標語(「シニフィアン」)と遭遇することで、政治運動を通じて、「人民(people)」というより大きな集合体のもとに包摂され、最初の個別的要求は正当な地位を得ていくという。そしてそれが民主政治に影響を与えていくことになる。「シニフィアン」それ自体には意味がなく、あいまいなものである(「空疎なシニフィアン」)
 重要なのは、この「人民」はあらかじめ決まっているようなものではなく、動的に絶えず変動し、政治的に構成されるものだということである。ラクラウにとってポピュリズムとは、社会に拡散している様々な要求を結びつけ、集合的な「人民」を構築する過程なのである。
 先に上げた『ポピュリズムを考える』でもラクラウは詳しく論じられている。吉田は、女性の権利を主張する「フェミニズム」と環境問題を重視する「エコロジスト」という、一見接点がない集団も、「現代の物質社会は男性的な価値観に支配された結果である」という言説に出会うことで、共闘する実現性を獲得する、といった例を挙げている。「人民」は、このように「空疎なシニフィアン」を通じて離合集散し、それが「政治」となっていくのである。
 山本は、このようなポピュリズムが、いかなる社会秩序も偶発的に構築されたもので構築されたものであることを暴露し、新しい政治的イマジナリーを創出し、硬直した友/敵対立の境界線をあらためて引き直すなどといった「効用」があると指摘する。そして、ポピュリズムが民主主義の片面であることに自覚的であることによって、自由主義的な諸価値と衝突しないような仕方で、そのような「効用」を抽出し、「「ラグマティックな」仕方で訴える」(P284)べきだとしている。



ポピュリズムの「輪郭」という問題

 一方で鵜飼は、ラクラウのポピュリズム論を評価しつつも、その論理が、「ポピュリストの代表する契機が実質的に議論されていない」(P96)と批判する。
 ラクラウのポピュリズム論では、代表は単純に「代表される者」の声を代弁する者ではない。代表する者が代表されるべき意志を形成することで、代表される者のアイデンティティや利益が構成される。そのように共振しつつ、代表する者はより普遍的な言説につなげるという象徴的な役割を果たしている。
 問題は、このような代表関係は「いつ」、「どのような手続きを経て」成立するのかである。つまりラクラウの論理は、その論理では触れられていない「外部」の存在に依拠しているのではないか。鵜飼がポピュリズムの「輪郭」にこだわるのはそのような理由からである。このような外部をきちんと織り込み、整理しなければ、ポピュリストと人民の垂直的な結合が、ラクラウの考えるような水平的な人々の結合を妨げてしまうこともあるかもしれない。現行のリベラルデモクラシーの諸制度の中で整理して配置しないと、結局のところ、「選挙を通じた民意」対「ポピュリズム批判」というお決まりの「ポピュリズム」は超えられないかもしれない。山本が今後どのような「輪郭」を描きつつ「効用」を引き出していくのか、今後の論文に期待したい。


本の紹介




2013年1月28日月曜日

greenzにインタビュー記事が出ました。

greenzに僕がインタビューを受けた記事が出ました。

「私たちが考えるこれからの選挙の形。One Voice Campaignによるネット選挙を解禁する公職選挙法改正案を解説!!」
http://greenz.jp/2013/01/28/onevoice_2013/